私が自殺に対して「肯定的な考え」である5つの理由【自ら死ぬことは悪ではない】

この記事では、「自殺する予定で生活している」私が、自殺することに対して肯定的な考えである理由を語ります。

 

結論からいうと以下のとおりです▼

  • 自殺することも個人が持つ権利だから
  • 無責任に「生きろ」とは言えないから
  • 死ぬことでしか解決できない問題もあるから
  • 死にたがる人間を必死に生かす必要性がないから
  • 死にたがる人間を無理やり生かすことは殺人だから

以上が、私が自殺することに対して肯定的な考えである理由です。

 

私は「生きることばかりを賛美する社会」が嫌いです。

すべての人間にとって、必ずしも「生きることが最善の選択」であるとは限りません。

にも関わらず、生きることを強いるような社会の在り方には、息苦しさを感じてしまいます。

 

自殺することは悪いことではありません。

命の所有権は個人のものであるため、実際には「生き続けるのも、死を選ぶのも本人の自由」です。

世間が「生きることは素晴らしく、自殺は悪いことである」という価値観で統一されているのは、あくまでも人間社会の平和維持がしやすいからこそ、そうしているだけのことです。

つくも
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自殺すること自体に「善悪の基準」なんて存在しないぞ。

 

この記事では、実際に自殺する予定の私が「自殺に肯定的な理由」をお話します。

あくまでも「歪んだ思想や主義を持つ私個人の意見」でしかないので、理解や共感はされないと思いますが、その点はご容赦ください。

 

なお、私が自殺する予定であることを信じられない人は、『弱者男性の私が「確実に自殺する」と言い切れる理由』を参照してください▼

弱者男性の私が「確実に自殺する」と言い切れる8つの理由【実行によって証明します】
この記事では、弱者男性の私が「確実に自殺する」と言い切れる理由について語ります。結論からいうと以下のとおり▼ 労働をしてまでも生きていたいと思わないから やりたいことなどの目標や目的が特に無いから 自分の欲望を満たすことが出来ないから 人間...
この記事を書いた人
つくも

日本一の弱者男性、ミニマリスト、人形作家、ライターとして活動。

30代中卒で 精神障害持ちの非正規労働者が本業です(笑)

両親が亡くなったあと、自殺する予定で生活しています。

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私が自殺に対して肯定的な考えである理由

結論からいうと以下のとおりです▼

  • 自殺することも個人が持つ権利だから
  • 無責任に「生きろ」とは言えないから
  • 死ぬことでしか解決できない問題もあるから
  • 死にたがる人間を必死に生かす必要性がないから
  • 死にたがる人間を無理やり生かすことは殺人だから

順番に解説していきます▼

1:自殺することも個人が持つ権利だから

1つ目は、「自殺することも個人が持つ権利だから」です。

人間には無条件に認められる権利として、「生きること」というものがあります。

ですがそれとは別にもう1つ、「死ぬこと」も無条件に認められている権利だと私は考えるため、自殺に対して肯定的な立場を取っています。

 

多くの人は「死ぬことの権利の存在」も認知はしているはずです。

しかし、死ぬことも個人の自由であるという価値観が蔓延すれば、相対的に「生きることの価値は下がって」しまいます。

それにより、自分の命を簡単に投げ出してしまったり、他者の命を軽く扱ってしまう人間が量産されていき、秩序を持って機能してきたはずの人間社会が崩壊する可能性が出てきます。

つくも
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最低限の道徳観や倫理観を維持するためには、死ぬことの権利を公に認めるわけにはいかない。

 

公に認めることはできないけど、死ぬ権利は確実に存在する。

死ぬ権利が認められないのは、あくまでも「人間社会の維持」「道徳観や倫理観の維持」のためであり、本来はすべての人間が持っているものだと私は考えます。

そのため、「自殺は良くない行いである」という考え方も、あくまで「社会的・世間的な面においては」というだけであって、自分の命をどのように扱うかは「完全に個人の自由」だと思います。

 

生きることばかりを賛美する理由も、「人間社会の秩序を守るため」でしかありません。

社会という枠組みの中で他の人間たちと共にするならば、互いの平和維持のためにも、「生きることのほうが尊くて素晴らしいことである」という価値観を基準にしたほうが都合がよいだけです。

つくも
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「生きることが正義で、自殺することは悪である」という考え方は、そのほうが社会秩序を保ちやすいからであり、別に「自殺するのは悪いことでもなんでもない」ぞ。

 

ということで、1つ目は「自殺することも個人が持つ権利だから」でした。

 

2:無責任に「生きろ」とは言えないから

2つ目は、「無責任に「生きろ」とは言えないから」です。

私は自殺しようとする人間に対し、「生きるべきだ」などと「無責任なこと」は言えません。

生きることは、「個々人によって天と地ほどの差が開くほど難易度が異なる」ものであり、人によっては「生き続けることが死ぬことよりも苦痛である」という場合もあるからです。

 

「生きろ」という人は、それ相応の責任を取るべきだと思います。

死のうとしている人に対して、生きることを強いるならば、その人の「今後の人生のすべての責任を取ってしかるべき」ではないでしょうか。

 

生きるということは、

  • 労働や納税などの義務が発生し、
  • 複雑で面倒くさい人間関係に苛まれ、
  • お金や健康や将来への不安と焦りにも対応する必要もある

こういった厄介で面倒な「生きること」というものを、なんの責任も取るわけでもないにも関わらず、「生きろ!」「自殺はダメだ」などと言って止めるのは、あまりにも無責任だと思います。

つくも
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死のうとしている人を無理やり生かすならば、その人が死ぬまでの生活費や娯楽費などのすべてを「自殺を止めた人間」が責任を持って面倒見るべきだ。

 

自殺する人を止める人は、主に以下の2通りです。

  1. 生きることが正義だと思っているから
  2. 自殺を肯定すると自分の倫理観が疑われるから

1に関しては、生きることを美徳としている社会的な思考から自殺を止めるタイプの人ですね。

そして、2に関しては、本音ではどうでもいいけど「自殺を止めておかないと自分の倫理観やモラルなどを疑われてしまう可能性がある」から適当に止めているだけというタイプになります。

 

2番目のタイプの人はまだマシですが、厄介なのは1番目のタイプですね。

生きることが絶対の正義であり、美徳であり、何があっても自殺することは良くないと思い込んでいるため、非常に面倒くさいです。

そして、死のうとする人を無理に生かす方向へと導いておきながら、あとのことは知らんぷりという「無責任極まりないことを無自覚」で行います。

つくも
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「セックスして妊娠させちゃったけど認知はしない」みたいな、無責任感を感じるよなぁ(笑)

 

私は自殺しようとする人に、「生きろ」とは口が裂けても言えません。

その人の今後の人生の責任を背負えるような余裕など無いし、仮に私が止めてしまったことで「さらに苦しい思いをすることになる」可能性も考慮すると、絶対に言えません。

生きることの難しさを理解している人、現実をきちんと見据えているまともな人ならば、無責任に「生きろ」などと言わないはずです。

 

ということで、2つ目は「無責任に「生きろ」とは言えないから」でした。

 

3:死ぬことでしか解決できない問題もあるから

3つ目は、「死ぬことでしか解決できない問題もあるから」です。

大抵のことは「生きていればなんとなる」ものですが、どうにもならないこともあります。

不治の病や寛解が困難な障害、生きていることそれ自体が苦痛な場合など、生き続けていても解決されない場合には「死ぬことが救いとなる」パターンも大いにあると私は考えます。

 

安楽死は、死ぬことが救いとなることを肯定している。

「何があっても頑張って生きるべきだ!」というのが、世間一般の考え方だと思います。

しかし、安楽死という方法が存在しているということは、「死ぬことも救済される方法のひとつである」と認めているのではないしょうか。

 

人間の安楽死は未だにほとんど国で認められていません。

また、安楽死を実施している国でも対象は「治療の苦痛に耐えられない重症患者など」に限られます。

安楽死はもっと多くの国で認めるべきだし、対象となる範囲も重症患者だけでなく、「希望者全員」でよいのではないかと私は思っています。

つくも
つくも

多くの人間は「生きることばかりを重視しすぎ」ている。死ぬことにも価値がある事実をもっとしっかりと認識すべきだ。

 

生きることを美徳だと思っている人間は、死ぬことでしか救われない人間の存在を認めません。

「生きていればなんとかなる」を100%信じ切っている、もしくは「死ぬことでしか救われない状況に陥っているほど苦痛に満ちた人生を送っていない幸福な人間」だと思います。

私のような「人間が存在している世界で生きること自体が苦痛」な者にとっては、死ぬこと以外に救済される方法はないのです。

 

ということで、3つ目は「死ぬことでしか解決できない問題もあるから」でした。

 

4:死にたがる人間を必死に生かす必要性がないから

4つ目は、「死にたがる人間を必死に生かす必要性がないから」です。

私は、人間の命には「必死に生かすそうとするほどの価値は無い」と思っています。

人間も犬や猫などと同じ動物の一種であり、他種族とは異なる特別な生き物というわけではありません。

 

人間は「自分たちを特別視すぎている」。

知能が他の動物よりも高いおかげで文明を発展させたことで、人間は生態系の頂点に君臨できました。

しかし、そのせいで「自分たちは他の動物とは異なる特別な存在である」という、壮大な勘違いをしてしまい、未だにその愚かしい勘違いを信じ切っています。

つくも
つくも

環境汚染しかしない二足歩行のクソ猿どもが。寝言は寝て言え。

 

人間の命の価値は、「主観的な関係性の中」にしかありません。

自分と親しい人の命の価値は高く感じられ、関係性が遠ざかっていくほど価値は低くなっていきます。

自分の家族や友人が亡くなると涙が流れるのに、赤の他人が死んだニュースを見ても涙が流れないのは、主観的な関係性の中から評価した「命の価値に優劣があるから」に他ならないのです。

つくも
つくも

「命の価値は平等なんだ!」ってよく言うけど、あなたは私が死んだところで悲しまないはずだ。

 

以上のような考え方からすれば、死にたがる人間を必死に生かす必要性は無いと言えます。

現時点(2025年)で約80億人もいるのだから、毎年数千万人が自殺したところで「人間社会的には」痛くも痒くもありません。

死にたがる人間を生かすためにかけるコストを考えれば、そのまま放っておいて、「生きることに積極的な人間たち」にコストをかけたほうが効率的・生産的な活動を活発化させられるのではないでしょうか。

 

ということで、4つ目は「死にたがる人間を必死に生かす必要性がないから」でした。

 

5:死にたがる人間を無理やり生かすことは殺人だから

5つ目は、「死にたがる人間を無理やり生かすことは殺人だから」です。

生きたがる人間を殺すことが殺人ならば、「死にたがる人間を生かすことも殺人」だと私は考えます。

本人が望んでいない苦痛や恐怖を与えることを罪とするなら、生きることを望まない人にそれを強いるのも、同様に罪ではないかと思うわけです。

 

殺人の定義に、生死状態の指定は無い。

一般的には「生きている状態の者を死に至らしめること」を殺人と定義します。

しかし、もっと広義に考えれば「本人が望んでいない状態に至らしめること」とも解釈可能ではないでしょうか。

 

何度も言っていますが、世間では「生きることが正義・美徳」という価値観で統一されています。

そのため、殺人の定義も「生から死へ移行すること」に焦点を当てた考え方になっています。

しかし、価値観をフラットにして考えてみれば、「生から死への移行に限った話ではなくなってくる」はずです。

つくも
つくも

本人に望まないことを強いるのを「暴力や虐待」としているのにも関わらず、生と死については「一方通行な考え方」しかされないのはどうかと思う。

 

ただし、死にたがる人間を「生かしておくこと」が殺人というわけではありません。

私の考え方としては、自殺しようとしている人に「生き続ける方向で考えを改めさせること」が殺人行為です。

命の所有権は完全に個人のものであるため、死にたがっているからといって、他者が勝手に相手の命を奪うのは「人権侵害や窃盗行為のようなもの」だと思います。

つくも
つくも

死にたがる人間も「いつどんな方法で死ぬか」は選びたいからな。死にたがる人間は「放置しておく」のが一番だ。

 

ということで、5つ目は「死にたがる人間を無理やり生かすことは殺人だから」でした。

 

以上が、「私が自殺に対して肯定的な考えである理由」になります。

まとめ

それでは、記事のまとめです。

ここまでの内容を軽く振り返って、終わりたいと思います。

 

「私が自殺に対して肯定的な考えである理由」は、以下のとおり▼

  • 自殺することも個人が持つ権利だから
  • 無責任に「生きろ」とは言えないから
  • 死ぬことでしか解決できない問題もあるから
  • 死にたがる人間を必死に生かす必要性がないから
  • 死にたがる人間を無理やり生かすことは殺人だから

以上になります。

 

私は「生きることばかりを賛美する社会」が嫌いです。

すべての人間にとって、必ずしも「生きることが最善の選択」であるとは限りません。

死ぬことでしか救われない人間も「確実に存在する」のですが、それを認めようとしない社会に対し、私は強い憤りを感じます。

 

「自殺は悪いことである」という価値観は、社会にとって都合がいいだけです。

あくまでも人間社会の維持や道徳観・倫理観を狂わせないようにするための策でしかなく、自殺すること自体に善悪の基準はありません。

命の所有権は個人のものであるため、「生きたければ生きればいいし、死にたければ死ねばいい」というだけのことなのです。

 

ここまで長々と見てくださって、ありがとうございました。

また別の記事でお会いしましょう。

(`・ω・´)< 記事の拡散をたのむぜ!

この記事を書いた人
つくも

日本一の弱者男性、ミニマリスト、人形作家、ライターとして活動。

30代中卒で 精神障害持ちの非正規労働者が本業です(笑)

両親が亡くなったあと、自殺する予定で生活しています。

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