この記事では、「弱者男性に努力しろ!というのが不適切である理由」を語っていきます。
弱者男性に関する話題になると、必ず「自己責任論」の話になりますよね。
「努力が足りないから弱者のままなんだよw」と言う人たちは非常に多いですが、個人的にこういった意見は、「間違っている」のではないかと思っています。
- 本当に自己責任なのか?
- 努力は誰にでも出来ることなのか?
- すべてにおいて弱者男性が悪いのか?
以上のような疑問を持っている人のために、今回は私が思っている意見を述べていきます。
結論からいうと、
という感じです。
では、なぜこのような結論に至ったのかを解説していきます▼
弱者男性は「努力不足」という自己責任なのか?
「弱者男性は自己責任だ」という意見をよく見聞きします。
「努力しろ」「努力が足りない」などと、努力不足だということを執拗に責め立ててくる。
まるで「努力をしないお前が悪い」と言われているような気分で、弱者男性である私は非常に不快な思いをしています。
そもそもとして「努力をしろ!」という人たちは、
「すべての人間が必ずしも努力できるわけではない」ことを知っているのでしょうか。
どんな人でも努力次第で人生を変えることができる。
という考え方は昔からありますが、この考えは「間違った考え方」です。
その理由としては、「努力できるかどうかは遺伝の影響を受ける」という研究結果に基づきます。
努力ができるかどうかは「遺伝」の影響を受ける
19世紀末、行動遺伝学者のフランシス・ゴルトンは「人間の能力がどのように遺伝するのか」について興味を持ち、調査を開始しました。
それにより、「同じ家系には同じような能力を持つ人間が生まれやすい」ということを、統計学的に明らかにしたのです。
つまり、優秀な人間は遺伝によって生み出されるのと同様に、「劣等な人間も遺伝によって生み出される」ということがわかってしまいました。
人間はなにかを学習して習得していく中で、必ず「一定の努力」を必要とします。
しかし、学習する対象に「どの程度の興味・関心を持つのか」は、個々人によって異なります。
これがいわゆる「向き不向き」や「素質」「性質」と呼ばれ、「努力ができるかどうかに強く影響を及ぼす」のです。
つまり、向き不向きや性質などの能力(才能)は遺伝していくし、その能力は「努力ができるかどうか、努力を継続させることができるかどうか」などに影響するというわけです。
そのため、そもそもとして「遺伝子的に努力することが出来ない人間」というのは、一定数存在することになります。
そんな人間に対して「努力しろ!」というのは、ずいぶん酷な話だとは思わないか?
コミュニケーション能力や仕事に役立つ専門知識など、社会生活を送る上で有利に働くものに対して性質的に不向きだった場合、それらを身に付けるための学習は、当人にとって非常に困難となります。
しかし、社会や世間は「努力できるかどうかも遺伝に影響されること」を広く認識していません。
未だに根性論や精神論がまかり通っているのと同様に、努力不足という名の「自己責任論」も否定されることなく、弱者男性たちが抱える問題を「深く考えずに一掃している」のです。
「努力できるかどうか」が、100%遺伝によって決まるわけではありません。
ですが、「遺伝による影響は受ける」ことは確実であるため、努力しないことを「個人の責任」だけで考えるのは適切だとは言えないでしょう。
環境を変えても努力できない者はできない
さらに 努力できるかどうかは、環境を変えたところで効果が無いことも証明されています。
ミシガン州立大学とテキサス大学の共同研究で、遺伝子学に関する「とある研究」がなされました。
この研究では、遺伝子的にまったく同じである「一卵性双生児」850組を、高所得家庭と低所得家庭それぞれに配置し、「異なる環境下でクラシック楽器の練習」をさせました。
クラシック楽器の練習は「地道な鍛錬が必要」なもので、思うように上達できなくとも、日々、黙々と努力を続けなければいけません。
そのため、「努力することができる」という適性を調査するのに非常に向いていたため、この方法が採用されました。
では、この実験の結果はどうなったかというと、
「演奏の技術における差異は観察されなかった」のです。
つまり、努力できるかどうかは、
という結論に至りました。
努力信仰論者の中には「環境を変えれば努力できるようになる」と、力説する人もいますが、科学的な観点から言えば、「環境による影響は 遺伝による影響を上回らない」ということになります。
どんなに良い環境を揃えたところで、「劣等な遺伝子を持つ人間」には、努力することが出来ません。
人間は自由意志のもとで行動していると考えられていますが、これらの研究結果から考えると、人間は「遺伝子によって最初から行動を決められている」と言えるかもしれませんね。
努力できない人間は、「努力するかしないかという選択肢自体」が存在しないのだ。
努力できるかどうかが決まる4つのパターン
努力できるかどうかが遺伝によって左右され、環境による影響を大して受けないとすると、努力と人間に関しては「4つのパターン」があると考えられます。
- 遺伝的に恵まれていて 環境も良かった者(先天的強者)
- 遺伝的に恵まれていたけど 環境が悪かった者(報われやすい者)
- 遺伝的に恵まれなかったけど 環境が良かった者(報われない者)
- 遺伝的に恵まれなかったし 環境も悪かった者(先天的弱者)
こんな感じ。
言わずもがな、多くの弱者男性は「先天的弱者」に該当します(笑)
次に、努力について「どんなタイプ」なのかで考えてみると、
- 先天的強者=努力を努力と思わないタイプ
- 報われやすい者=努力しようと思えばできるタイプ
- 報われない者=努力しても空回りするタイプ
- 先天的弱者=努力することが出来ないタイプ
という感じでしょうか。
報われない者は、「努力はできるけど努力の方向が違う」みたいなやつですね。
そして、具体的にどんな人が当てはまるのかを考えると、
- 社会的な成功者=「先天的強者」または「報われやすい者」
- 多くの一般人=「報われやすい者」または「報われない者」
- 社会的な弱者=「報われない者」または「先天的弱者」
このように分類することが出来ます。
つまり、弱者男性は「そもそも努力が出来ない」もしくは、「努力しても高確率で報われない」ということです。
そんな存在に「努力しろ!」「努力が足りない!」というのは、やはり適切ではないように思います。
「努力しろ」という人たちは「どんな人たち」か?
そもそも「努力しろ!」という人たちは、どんな人たちなのか?
私が調べ回ったうえでの結論としては、以下の3通りになります▼
- 社会的に成功している人たち(強者)
- 世間的に弱者と判断されない人たち(中流)
- 自己責任論で片付けて目を背けたい人たち(凡人)
では、どうして彼らは「努力しろ!」と言うのでしょうか。
まず、強者と中流には「成功者バイアス」がかかっていることが考えられます。
自身の成功体験や他人の成功事例ばかりに注目してしまい、先天的弱者の存在を正しく認識できていない。
そのため、成功できていない弱者男性に対して「努力しろ」「努力が足りない」などと、的外れな言葉を投げつけるわけです。
成功者バイアスにかかってる連中は、「すべての人間は等しく努力できる生き物だ」って思い込んでいるから非常に厄介なんだよな。視野狭すぎだろ…。
そして、凡人はそもそもとして弱者男性に興味・関心がありません。
弱者男性が苦しんでいようが、どこかで野垂れ死のうが「どうでもいい」のです。
それにより、「たいして深く考えずに昔からよく言われている一般論」として、「努力しろ」「努力が足りない」などと、軽薄に発言しているに過ぎません。
ネットニュースやSNSのトレンドでたまに弱者男性の記事が出た時に、深く考えず「努力しろ!」って言ってるだけ。もうほぼ脳死状態で書きこんでるようなもんだぞ(笑)
よって、彼らが口にする「弱者男性は努力をしろ!」という言葉は、不適切かつ無責任なものだと断言できます。
弱者男性に「努力しろ」という人たちは理解していない
「努力しろ」「努力が足りない」というのは、弱者男性当人が、
- どんな遺伝子を持っているのか
- それがどれぐらい影響を与えているのか
- どんな家庭に生まれたのか
- どんな環境で育ってきたのか
- 現在はどんな暮らしをしているのか
このようなことを考慮しない限り、的外れで適当な発言でしかありません。
弱者男性に対して「努力しろ」などと言う人たちは、そんなことを言えるほど「弱者当人について理解を深めて」はいません。
なので、最初から弱者に対して「努力するよう責め立てる」資格すら無いのです。
にも関わらず、相変わらず適当な発言を繰り返す彼らには、ほとほと呆れてしまいますね(笑)
まとめ
では、記事のまとめに入ります。
結論として、弱者男性に「努力しろ!」という世間の人々には、
黙ってろ
と言いたいですね。
不適切で無責任なうえ、言える資格すら無いのだから、弱者的な立場にいる人間に対して「偉そうに口を出すべきではない」と思います。
歪んだ認知を持つ成功者、深く考えない一般人たちの「的外れで適当な発言」ほど、我々、弱者男性の癇に障るものはありません。
これ以上、無敵の人を生み出したくないのならば、今後は黙っておいたほうが賢明です。
そして、弱者男性たちには、
行動し続けろ
と言いたいです。
遺伝による影響のせいで「努力できるかどうか」が決まってしまうことは、科学的に証明されました。
しかし、自分が「どの程度の影響を受けているのか」がはっきりとわからない以上、それを努力できない言い訳にすることは出来ません。
遺伝子の有無、影響を受けた度合い等は「人生に挑み続けなければわからない」です。
環境に関しては、大人であれば、ある程度は自分で変えられる部分もあるはず。
それでもなお、行動しようとしないのなら「自己責任」と言われても仕方がないと思います。
人生を変えたい、弱者的な立場から脱したいのならば、
故に私は「努力しろ!」ではなく、「行動し続けろ!」と言わせてもらいます。
ここまで長々と見てくださって、ありがとうございました。
また別の記事でお会いしましょう。
(`・ω・´)< 記事の拡散をたのむぜ!