楽観的な自殺とは「自分で寿命を決める」という考え方である【コラム】

 

楽観的な自殺とは「自分で寿命を決める」ようなものである。

長く生きることを望んでいない人間にとっては、病気や事故などで偶然「死が訪れるのを待つ」よりは、自らの意思とタイミングと方法で「人生の幕を降ろすのできる自殺は悪くない選択肢」だ。

 

「人生に絶望したから」とか「生きているのが辛いから」など、消極的な自殺はあまり良いものとは思えない。

しかし、

  • 「長く生きていても退屈だから」
  • 「これ以上は労働をしたくないから」
  • 「特にやりたいことや目的が無いから」

など、どちらかというと「楽観的というか効率的な理由」で行う自殺は、命を捨てるというよりも「自分の寿命を決める」ようなものである。

 

誰もかれもが長く生きることを望んでいるわけではない。

にも関わらず、死ぬことの自由性を「道徳的・倫理的な面で制限している」のはおかしな話に思う。

 

制限する理由や目的も理解できる。

だが、人間社会で生きるという「割と難度が高く面倒極まりないこと」を、長く生きることを望んでいない人間に強いるような「価値観の押し付けや圧力」は、改めて見直すべきではないだろうか。

 

一般的に人間の死は「病気や事故、事件に巻き込まれる」など、外的要因が発生するまで待たなければならない。

しかし、私はこれがあまり納得できていない。

外的要因が発生するか否かはほとんどギャンブルであり、下手をすれば「長生きしたくない人間が長生きしてしまう」という事態が起きてしまう。

 

長く生きるということはその分だけ、労働や納税などの義務を行わなければならなくなるし、生活における様々なトラブルにも対応せねばならなくなっていく。

このような

望んでいない状態を半ば強いられているような人生

が幸せだとは私には思えない。

 

ある日 突然に死が訪れるのを待つよりも、自分で寿命を決めて「死を迎える」という考え方がもっと広まってもいいと思う。

生きることについては「ある程度の自由性が認められている」のに、こと、死に関しては途端に「選択肢が狭められていて不自由極まりない」のは息苦しくて仕方がない。

 

 

この記事を書いた人
つくも

日本一の弱者男性、ミニマリスト、人形作家、ライターとして活動。

30代中卒で 精神障害持ちの非正規労働者が本業です(笑)

両親が亡くなったあと、自殺する予定で生活しています。

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